昭和43年10月21日 朝のご理解
                          平川直子ノート・松永享四郎

ご理解第九十七節
「神を拝む者は、拍手して神前に向かうてからは、たとえ槍先で突かれるても後ろへ振り向くことはならぬぞ。物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かぬ。」


 これは、信心の厳しさを感じます、ここで、神に一心は届かぬと、こう仰有る、いつもその一心をかけると云うね、一心を持ってご祈念をするとか、一心を持って、神様に向かうとか云う、神を拝む者は拍手して神前に向かってからはと云う事を、そこに、一つのまあお願いならお願いをさして貰う者は、先ず、自分の願おうとするその心が、いわば白紙でなからなければならない。
 云うならば、一心鏡の如くでなからなければいけない、それが、神に一心を向ける、神前に向かうてからはと、神前に向かうまでに自分の心と云うものが、云わば清まっておかなければならない、イヤそれは神前に向かうてからです、先ず、自分の心を整え、自分の心が先ずまあ云うなら美しうなからなければいけない、清まっておらなければならない、それが、出来ないで一心に願ったところで、おかげにはならん。
 所謂、「一心に頼めおかげは和賀心にある」と仰有るんですから、「和賀心」を先ず頂かなければ、和賀心とは、所謂、和わらぎ、賀こぶ心とね、いつも、その和わらぎ賀こぶ心とか清らかな心とかと、又、美しい心と云うものを持って、それが、真剣でなからなければいけません。
 それは、例え槍先で突かれても、後ろへ振り向く事はならん、先ず、和賀心を願え、しかも、それが、一心不乱と云う、ね、一念発起すると云うね、所謂どうでもこうでも、と云う願いを持たなければ……しかも、それを曲げてはならない、後ろへ振り向く事はならない、でないと、神に一心は届かないとこう云う。
 私共の心の中に、例えば親切でない心、ね、又は、影と日向の心、そう云う心で、神様に向かうても、あの神を拝む者は拍手してと、神前に向かうてからは、拍手と云うところね、拍手してからと云う事は、かしは手を打つと云う事でしょうけれども、かしわ手をうって、神様に向かってからには、どうでもこうでもと云う一心があると云う事と同時に、それより前に拍手と云う事は、願う事にも一心なら、改まる事にも一心になれと仰有る。
 所謂、おかげは受け心になる、受け心を受けると云う事にも、一心にならせて貰って、そして、信心に向かわなければならんと云う事、こがしわ手(手を打つ音)そのかしわ手の音が、この様にうだつなものて云うかね、所謂、不浄のないものと云うか、そう云う心と、そう云う心で一心に不乱に願わなければならない。
 それは、例え槍先で突かれても、と、物音を聞く様では、神に一心は届かぬとね、これはもう、何が何でもと云う事だと、こう思うね、例えば、物音を聞いても、その思いは変えないと云う事ね、願いのその事は変えない。
 私は今ご祈念、神様へ一生懸命拝まして貰う、それを、こう云う心で拝んでも駄目だろうと思う様な事がある、その時にはやはり、その心を先ず願わなければならない、先ず、その事の清まらして貰う事にそれを願わなきゃいかん。
 和賀心になる事を願わにゃいかん、心が鏡の様に、おかげを頂く事を、先ず、願わなかればいけん、その事を願う、願う事に一心なら、改まる事にも一心にならなければならない、しかも、物音や物声を聞く様では、それも又、一心不乱でなからにゃいけん。
 これは、非常に難しいですね、そこで、私は難しいその事を思うのですが、お取次ぎを頂いてお願いをすると云う事、そのお取次ぎを頂いてお願いをする、その事が、やはり、一心でなからなければならん。
 又、お取次ぎを頂いて、お願いをする事が、どうぞ、私の心の上に、おかげの受け心と云うものを頂かして下さいと、お取次ぎを頂いて、お願いをすると云うが、お取次ぎ頂いて、お願いする事が、先ず先にね、自分の心の上に改まらして貰うと云う事を、今日もどうぞ改まらして下さいと、清まらして下さいと、云う事を願う。
 ただ、これだけ頂きますと、中々大変に難しい事である、ね、けれども、お取次ぎを頂く事によって、自分の心の中に和賀心が頂ける、心が清まる、お取次ぎの働きと云うかね、お取次ぎの働きを頂いて、槍先で突かれても、後ろへ振り向かんですむ様なおかげ、物音や物声を気かんですむ様なおかげね、お取次ぎを頂いて自分の心の中に、清まった心を頂いて行くと、そして、その願わして頂く事は、後ろへ振り向く事はならんと仰有る。
 もうお取次ぎを願って、お願いをさせて頂くからには、もう一心でなからなければならん、どうでも、こうでもと云う願いを持たなければならん。
 そこで、そのう、こう云う例えば、難しい例えば、み教えをです、教会にお参りをさせて頂いて、こう云う事を心に思い願わせて頂いて、神様に打ち向かうと、ね、そこん所が繰り返し繰り返しなされて行くところにです、私、おかげ頂かにゃならん、ね。
 とても、そげん物声を聞かんとか、槍先で突かれてもとか、物音を聞かんてんなんてん、と云った事はもうでけんものの様にですね、私共が思うてしもうたんでは、あのまあ、神前に向かうからには、これが一番大事だと、それを本気で頂かして貰おう、それを繰り返し繰り返し、お取次ぎを頂いて、お願いをして、それが、信心をさせて頂く者の、一つの基本条件ね。
 だから、信心の稽古と云う事は、ね、私は、この九十七節にある様なところを、私は本気になって、稽古する事だと思う、これを一つ一ついわば解釈してまいりますと、どれもこれも、出来そうにもない様な事ばかり、けれども、それを、私は繰り返し繰り返しですね、所謂、信心さして頂く者は、一心でなからなければいかん。
 和賀心でなからなければいけん、ね、いわば、心の中には不純なものがあってはいけない、拝むからには、もう槍先で突かれても、物音をまた聞く様な事があってはならん、と云った様なですね、様なものが、ここは一番始めに、やはり、一日こう云う状態ではと云うその事を、いわば本気で改まらして頂くと云う事を、もういつも絶えず心の中に念じ続けての信心でなからにゃいけない、ね。
 もう改まる事とか、磨く事とか、そう云う様な事は、あの、さておいて、ただ、お願いをする事だけを、いわば拝んでは駄目だと、ね、拝む前にと、こう私は思うんですけども、ですから、いつもそこん所が、人間の基本にならなきゃならん、ね。
 そこんところをですね、私は、このお詫びと云う様な事になって来るんじゃないかと、一生懸命続いておりますけれど、心はこんなに濁っておりますとかね、こう云う状態では、相済みませんけれども、とか、それをいつも思うとかなければ、そう云うお詫びになって来ない訳ですね。
 しかも、そこんところをお取次ぎを頂いてですね、どうぞ、今日も本気で改まらして下さい、本気で清まらして下さいと云うお願いね、その願いを一つ根本にしてからの願い、信心でなからなければ、そこを繰り返し、稽古さして頂く所からです、ね、神様に通う、交流する心、と云うものが、生まれて来るのじゃないかと、こう思います。
 今日のご理解は、ただ表面に出ておる所を頂きます、この表面に出ておる所だけでも、これは大変に難しい、これを例えば、槍先で突かれてもとか、物音や物声を聞く様ではと、云う事は信心させて頂いておって、いろんな難儀な問題が起きても、又は、人がとやこう云うても、それを中傷する様な事を聞いてもですね、その事によって自分の心を迷わしてはならない、と云う様に頂いてまいりましたですね。
 ですから、その事は、案外見易い、この場合は、このご理解の奥にあるものは案外見易い、けども、このご理解の表面に出ておる所だけはむしろ難しいね、言葉にそのまま、例え後ろから槍先で突かれても、振り向いてはならんとかね、物音や物声を聞く様では、神に一心は届かんとかと、ここん所が難しい、普通のご理解は、その上部の方が難しい。
 その言外の言と云う言葉に表れておるその裏の方が、難しいけれども、このみ教えばかりは、表面に出ておる所が難しい、だから、難しいからと云うて、これをなおざりにしてはならない、やはり、そこん所を頂いて行く。
 この通りの事が出来る様なご祈念が、さして頂きたいと、それには、先ず、お取次ぎを頂いて、そう云う神様への、一心発起と云うか、ね、そう云う心の中に、そう云う思いを起こして、そう云う思いをいつも持たして頂いて、おかげを頂いていかなければならんと、こう思います。
 私共のご祈念は、もう全然最後に聞く様では、神に一心は届かぬと仰有る、一心が届きよらんと、云う事になる、ね、何故かと云うとね、例えば物音、物声を聞く、聞こえておるんだものね、こんな事では、神様に一心は届かぬと云う事になるんです、ね。
 これは、難しいと云うのじゃなくて、やはりそこん所をです、稽古をした上にも稽古さして貰うと云う事が大事、これはもう、ここん所はもう、頂き続けておらなけらばならない、そこで、私がご祈念する時やはり、あの静かな時期を選んだりね、ご祈念のし易い雰囲気を作ったりする訳ですね。
 けれども、それでも信心と云うのが、何時どこでなら、バスの中で、願わなきゃならんかも知れません、ね、お礼云うのも人ごみの中で、祈らなければならん様な事があるかも知れません、そう云う時に、物音を聞く様な事ではと、仰有るのですが、難しい事です。
 難しいからと云うて、ならここん所をなおざりにしちゃならない、そこで、私は、そのご祈念の時間と云った様なものをですね、私共が如何に大事にして、如何にそれをいわば、心ゆくまでのご祈念と云った様な稽古が必要であるかと云う事が判る、ね。
 心ゆくまで、もう繰り返し繰り返し、物音を聞いて祈りが乱れる、又始めからやりなおす、ね、そう云う、たゆまざる、そのご祈念の稽古といった様な事が、ね、非常に大事、そこに一心を向けて行くと云う所にです、信心の所謂、腕が上がって行くです。
 私の、修行中の事でしたけれども、もうそれこそ、朝、夜が明けてから、ご祈念をしたところ、下そこん所を見て見ると、もういっぱい私の血を吸うた蚊がいっぱい、手でこうして集めんならんごと落ちとる。
 一晩かかってしてご祈念が出来ない、なら、大祓なら、大祓をですね、一生懸命こうやってあげよる、ね、けれどもあんまり蚊が喰うもんでですけん、その一寸途中で迷うてしまう、それでも、やっぱり一巻の大祓をですね、一巻じゃない、何巻か、何巻という大祓を神様の前にお供えさして頂こうと、思って一生懸命お願いしちゃるのが、成就しない。
 一晩かかっても出来ない、ね、例えば本当のご祈念出来なかったんだけどもですね、それこそ、蚊に喰われながらでも、一心を神様に向けて、ご祈念を出来なかってもです、ね、大祓一巻がよう上がっていなかってもですね、けれども、神様へ向けた一心だけは、神様は受けて下さるね。
 一晩中かかって、それを成就しようとする、その一念発起した事を、それを成就、頂かせて頂いておるその事が、神様は受けて下さる、ね、だから、出来んと云うて、そのもう止めたらつまらん、又、それを思わなかったんじゃ駄目、ね、そこんところお毎日毎日取り組んで、信心がなされ、ご祈念がなされる。
 出来んけれども、そこんところを、ね、繰り返し繰り返し、して行くその一心を、神様が受けて下さる、その一心が神様に通う、そして、それが段々出来る様になる、おかげが頂かれる。
 今日はこのご理解のこれまでの事を、私共が読ませて頂く、そのものの事をです、一つ、これまでの信心の上に表して行く、稽古して行く事が必要である、ね、それを、繰り返しさして頂く、その一心が尊いのである。
 神を拝む者は、拍手して、神前に向かってからは、例え槍先で突かれても、後ろへ振り向く事はならんぞ、     手を(手を叩く音)こうして、叩く様な事があっちゃならん、ね、それでも、神様、大祓を何巻上げますとこう云うてある。
 だから、もう感動してから、もう手をこうする事もできんもんだから、一生懸命辛抱しよると、大祓をちゃんと忘れてしもうち、どこ上げよったか判らんごとなる、すると、その蚊が落ちてしまう、そして、とうとう一晩中ご祈念をしよっても、大祓がよう一巻上がらん。
 本当に情けないごとあるとこう思うけれどもです、今から、私考えて見ると、それを繰り返し繰り返しさせて頂きよった、その一心が、神様に願う事は、その大祓一巻も上がらない様な事だけれども、それを繰り返し繰り返し、神様へ向けて行く、その心が一心であるから、受けて下さった。
 と云うと、このみ教えは出来ない、出来ないでも、やはり、そこんところは、繰り返して稽古して行かなきゃならないと、云う事が判りますです、ね。      どうぞ。